境内のご案内

境内景観
正面に本堂。本堂向かって左に加藤清正公堂、右に庫裡玄関があります。
辻説法銅像鎌倉の辻から北条の辻へ
 道行く末信徒も対象に日蓮聖人の慈愛あるお姿が心の灯台になればと願い、世の中と人の心の闇を取り除き、泥に染まらず清らかな花を咲かせる蓮華のようなシンボルをと、銅像建立を発願し、平成15(2003)年11月12日に日蓮聖人辻説法銅像の除幕開眼法要が営まれました。四国地区最大級の日蓮聖人辻説法銅像(高さ3m)の八葉蓮華台座(高さ1.75m)は永代供養塔を兼ね、内部の上段にはインドの菩提樹に描いた釈尊画像・五大佛蹟の石と砂・法華三部経真訓・御遺文真蹟写真全集・法善寺過去帳・お題目写経約800部と、中・下段に新仏の白木の位牌、永代供養並びにご分骨の霊位を納めています。金壽堂制作
法善寺本堂 元亀元(1570)年建立、2020年法善寺開創450年祭予定
 本堂にお参りすると、正面奥に一段高まった処があります。これは須弥檀(しゅみだん)といい、その上に奉安されている諸佛像群が大曼荼羅像造式ご本尊です。日蓮聖人は、法華経信仰のご本尊として大曼荼羅を書かれました。この大曼荼羅は、専ら文字によって書かれたものでしたが、室町後世になると文字の部分を絵画にした絵曼荼羅や、仏像彫刻とすることが行われるようになりました。現在多くの日蓮宗寺院でご本尊さまとして安置しているのは、この大曼荼羅の主要部分の諸尊を仏像彫刻で表現したもので、当山のご本尊さまも同様です。
内陣ご本尊
 ご本尊の最上段の中央に奉られているのが「南無妙法蓮華経」の題目が書かれた宝塔です。その左右に座しておられるのが、<左・釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)右・多寶如来(たほうにょらい)>。その両脇に立っておられるの四人の菩薩は右中から上行(じょうぎょう)菩薩・無邊行(むへんぎょう)菩薩、左中から淨行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩。この菩薩たちは、末法に法華経を広めることをお釈迦さまから命じられた菩薩さまの代表です。又、下段左・白象に乗っておられる普賢菩薩、右・獅子に乗っておられる文殊菩薩は、お釈迦さまに近侍する菩薩として「釈迦三尊」という名称で一般的に知られています。左脇には三目と六本の腕をもった愛染明王、右脇には火炎を背にした不動明王、四隅には左上に北方毘沙門天王(青)、左下は南方増長天王(赤)、右上に東方持国天王(緑)、右下は西方廣目天王(黄)と、四大天王像が法華経を説かれる場を守護するように四方を囲んでいます。そして中央下一番手前には末法の大導師宗祖日蓮大聖人のご尊像が奉安されています。
【文政4(1821)年大法寺第18世遠昶日泰上人寄進、法善寺第15世霊智院日信上人代】
板曼荼羅ご本尊(内陣奥)
 元禄5(1692)年 京都谷口法悦氏寄進
 高さ三尺(93cm)・幅一尺八寸(55cm)
 厚さ2.5cm
◆鐘楼門(山門)
宗祖日蓮大聖人 立教開宗750年慶讃記念事業
元禄10 (1697) 年巳卯年11月吉日、新造立
天保15(1844)年甲辰年 4月19日、再建立
平成13(2001)年辛巳年7月29日再々建立・平成14年落慶
本妙山法善寺第25世泰宣院日秀上人 増圓妙道 位隣大覚矣之為、
26世遠照院日孝 村口泰則代 解体修復、梵鐘新調之砌、
→鐘楼門改修の様子はこちら
立正安国の梵鐘
  (※西南役の際に供出し)、鐘楼門・山門の二階に再安置す。
 立教開宗750年慶讃記念
 平成14年2月復元新調、
 御首題は、身延山第91世法主、藤井日光猊下の御染筆
   直径二尺三寸(70cm)
   重さ、百三貫(385kg)
   滋賀県・金壽堂にて鋳造
清正公堂内陣
開運北辰妙見大菩薩 子安鬼子母神・十羅刹女 淨池院殿永運清正公大神祇





















最上(稲荷)位経王大菩薩 七面大明神(天女) 法華経守護の三十番神
瘡守稲荷大明神
輪玉水華台
瘡守(かさもり)稲荷堂
貞松姫・多喜姫埋葬の地

日蓮聖人ご降誕の翌年、貞応2(1223)年3月18日北条の埋め立てに際し、人柱の犠牲となった多喜姫と 松姫二人の女性の菩提を弔うため、埋葬の地である現在の地へ移転し、北条風早の地の安泰を祈る本化の道場として今日に至っている。

 子どもの頃、7月23日の清正公さま」の縁日には、門前に夜店が立ち並び大変な賑わいを呈していた。当時は、北条全域からお灯明銭を集めそれによって伊予万才などの余興を盛大に催していたが、今はすたれてきている。この縁日には、清正公様の法要と併せて人柱となった二人の姫の霊を弔うための回向を連綿と続けているということであった。住職の話によると、その姫の化身ではないかと言われていた大松があり、一本は山門内の瘡守堂の近くに、もう一本は本堂裏墓地の中ほどからやゝ北寄りにあって昔は民家の屋根が低かったせいか沖合いから港に入って来る船が灯台代わりの目印にするぐらいの大木であったという。またこの松には白鷺がよく巣を作り、そのため墓地の上に糞が落ちるので大変困ったとのことであった。しかし、この松も終戦後、松食虫のため枯れてその姿が見れないのは残念である。

 瘡守堂内にまつられている瘡守大明神がある。瘡というのは、できもの、はれもの、皮膚病の総称で、これらの病気にかかった人たちが「お願」をかけて毎日参拝したそうである。話は少しそれるが数十年前ころ天然痘に感染しないため予防接種(種痘)を実施することが義務づけられていた。種痘は生後2ヶ月から12ヶ月以内に第一学期、小学校3・4年ごろ実施し小学校の通信簿に記載されていた。赤ん坊の時は種痘のあとに瘡蓋ができると「のし」(米のとぎ汁)を少しつけ、ほうそうのついたことを確かめ赤紙で小さい御幣をつくり割竹に差して玄関の板につきさすような「まじない」をし、赤飯を炊いて赤ん坊の無事を祈ったのである。それは、免疫ができて一生、天然痘に感染しなくなるからである。

竹田寛ふるさと館館長「古里見聞」より

豊田家元祖並びに布屋開祖の墓所
本妙山法善寺開祖 本妙院日法大和尚(を招請して、元亀元1570年法善寺を建立)
豊田家元祖并びに布屋開祖(法善寺開基檀越)
豊田幾之進本義  保眞院殿淨本日義大居士寛永14(1637)年1月8日没 行年93歳
同妻 節女  壽性院殿妙春日理大姉  寛永17(1641)年2月9日没  仝 95歳
 辻町之東南の菩提所 法善寺に葬れり。
長男 豊田七右衛門義國 本理院壽仁日信居士(元禄8(1695)年5月19日没)
同妻 きよ 圓壽院妙長日榮大姉(元禄7(1694)年3月21日没)
次男 豊田勘左衛門義定 長園院宗壽日量居士(寶永元(1704)年4月7日没)
同妻 亀め 圓喜院妙安日隨大姉(元禄8(1695)年5月3日没)
第48代
三男 豊田茂右衛門義信 淨玄院宗保日養居士(享保7(1722)年12月13日没)
同妻  き ぬ 榮松院長清日涼大姉(享保16(1731)年7月22日没)
四男 豊田保兵衛 義為 保壽院宗仁日長居士(寶永4(1707)年1月9日没)
同妻  を よ 壽清院妙遠日珠大姉(正徳2(1712)年3月1日没)
五男 豊田茂左衛門義忠 淨壽院春海日陽居士(寶暦7(1757)年3月12日没)
同妻  以 よ 淨心院妙敬日法大姉(寶暦12(1762)年2月13日没)
 右兄弟各々別家して、現在乃北条町布屋七家之祖登なれり。 (以下の系図は省略)

諡号※本具院日逢聖人(当山7世)寶暦12(1762)年3月24日没(積善寺開山)

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